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「そして私(たち)は、かつてあのグループにいた」 -相田さんのレクチャーに寄せて-

 この文章は、2018.7.1worksTokyo主催「グループ実践講習会」に参加した私の、個人的な体験を記すものである。あるいは相田さんのレクチャーへの、私なりのささやかなオマージュである。

 私は書くことを選んだ。すでに「かつて」としか言い表すことのできないあの日のグループに、確かに存在していたことの証として。何より、ごく僅かでもあの日あのグループに集った人とのつながりを、記憶の底に沈めてしまわないために。

 梅雨明け間もない、よく晴れた日曜日である。「日曜から早起きなんて、面倒だな」と私は思う。まだ手付かずの日曜の朝の空気が、気持ちを和らげてくれる。それでも5歳になったばかりの娘と過ごせない日曜を、私は残念に思っている。

 今日は一体どんなグループになるだろう。その前にSTAFFとしての会場準備が必要なのだ。今日は神保町だ、せめて昼には美味しいカレーを食べよう。私はそう決めている。

 午前中は「レクチャーとロールプレイ」である。相田さんの語り口が幾分高揚しているように感じられる。「随分熱心だな」と私は思う。それに内容は盛りだくさんで、必死に耳を傾けていないとついていけない。「私たちは・・・云々」「患者と、あのグループに・・・」相田さんが話し続ける。気付くと私はなぜだか泣いている。

 昼食は何人かのメンバーとカレーを食べに出かける。涙の訳を、あるいはその意味を、誰も私に聞かない。彼らのプロフェッショナルな境界感覚(バウンダリー)に、私はそっと守られ、支えられている。

 午後は「体験グループ」である。固い沈黙がある。涙を流す人がいる。私は時々口を開いてみる。繋がれそうで繋がれない感覚がある。笑いが起きる。誰かが怒っている。全く口を閉ざしている人がいる。エトセトラ、エトセトラ。

 こんな風に書いてみて私は思うのだけれども、私たちが臨床家として、あるいは人として乗り越えなければならないのは、「今ここ」で体験できる自分の体験が「かつて」としか表現され得ない「過去に体験しすでに失われたもの」としての何らかのグループ体験でしかないという、”逆説的なおかしみ”みたいなものではないだろうか。そのような文脈で考えてみるとグループ体験は、喪失の痛みとの対峙そのものではなかろうか。

 きっと「今ここ」のグループでは哀愁が漂い、選択と決断の後悔は迫り、美化された過去と現在は葛藤的であるだろう。そして私(たち)はそのようにして、繰り返し失くしてしまったモノたちへ想いを馳せ続けるのだろう。

 目の前にいる他者に、愛を抱き続けるために。

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