こうしてバトンはつながれていく
- 桜庭 拓郎
- 2018年3月20日
- 読了時間: 2分
梶本さんからworksTokyoのリレーコラム執筆の声がかかった。ぼくの名前を出してくれた人がいたという話をそえて(卜部さんありがとう)。
普通に考えれば、取るに足らない話だ。グループの代表者から、たまたま今回、縁があったぼくに声がかかっただけのこと。だがそんな些末な事態が、ぼくにとっては、大きな意味をもつ。
集団精神療法は、実践(臨床)と学び(研修)との境目が他の治療的アプローチに比べて小さいように感じられる。また、学びと自分の治療(この言い方がしっくりこない人もいるだろうが)との境目もあってないようなものだろう。
worksTokyoという新しいグループで、ぼくは学びの機会を求めているが、同時に、そこでの生のかかわりのなかで、ぼくは自分の治療となることを期待している。新たな気づきであったり、集団に受け入れられたという体験であったり。
この感覚は、こうしたグループを学ぶ場に積極的に出てくる人のなかに、多かれ少なかれあると思う。研修に参加していると(特に体験グループ)、それが学びなのか、実践(仕事でやってるやつ)なのか、治療を受けにきたのか、よくわからなくなってくる。
みなさん、あるでしょう?きっと。
ときにうれしくなったり、ときに傷ついたり腹が立ったりしながら、とりあえず、今このかかわりのなかで、自分がどうするかを考え、動くというのを繰り返す。
というわけで、
ぼくにとってグループの研修に声がかかるということは、学びを誘われる以上に意味がある。声がかかるということ自体、既に治療的な意味があると言ってもいいかもしれない。たとえ都合で行けなくても。“あなたの存在はちゃんと知っていますよ”、“あなたはメンバーですよ”と言われているような感じがするのだ。
・・・度が過ぎるとグループに依存し過ぎていることになる。気をつけよう。
ぼくは中学生のとき、陸上競技部でリレーをやっていたからバトンには思い入れがあって・・・、という話もしたいけれど、また機会があれば。このバトンを、そろそろ次の人に渡さなくてはいけないから。
いつか必ずあなたにもバトンがきますよ。(書くことが苦手かもしれないけど)意外といいものですよ。バトンを受け取る気持ち。次に回す気持ち。
