どんな形であれ気持ちに言葉が与えられること
いつ頃からなのかもう思い出すことはできないけれど、僕は文章を書かなくなった。
文章を書かないでもいられるようになった、と言ったほうが正確かもしれない。逆に言えば、僕はそれまで日常的に文章を書いていた。それはくだらない出来事の羅列であったり、想像上の物語だったりした。こういった告白は今となっては本当に恥ずかしいけれど、一時は本気で「文筆家」になろうとさえ思っていた。
一度だけ当時の恋人に僕の書いた作品を読んでもらったことがある。彼女は彼女なりにその作品を褒めてくれて、とてもホッとした気持ちになったのを今となっては懐かしく思い出す。
吉行淳之介の作品に、「家屋について」という「超短編小説/Sudden fiction」がある。主人公が汽車旅行の車内で人生を回想する作品で、移り住んだ家屋と幾つかの場面について象徴的な意味を読み取ろうとするものである。僕は特にこの作品を気に入っているわけではないけれど、ある時ふと読み返していると、グループ体験のもたらす意味についての僕自身の連想と物語の有り様がつながりを持って感じられ、これまでの体験から得た“何か”が輪郭を持ち始めた。
「時間の流れが、不意に粘り始め」たことをきっかけに、主人公は過去を眺め始める。思い出されるのは、じめじめとした「陰気なことばかり」である。祖父、醜い女中、家の裏に流れる小川や橋の踏み心地。回想は一定の方向を目指してなされているように、読み手には感じられる。しかし不意に彼は「身震いに似た感情」に襲われて、現実世界に引き戻される。回想は中断される。現実世界で彼は、その感情の隠された意味について考察する。彼だけがどこかへ辿り着きそうである。気づきの予感が漂う。しかし結局、読み手に答えは与えられない。
僕が文章を書かなくなったことと、グループ体験を重ねてきたことは、きっとどこかでつながっている。結局のところ、どんな形であれ僕自身の気持ちや心持ちは、それ自体が僕そのものによって言葉が与えられることを求めているのではないだろうか。もし自分の感じていることに言葉が与えられずに、名もなき気持ちたちが記憶の底に真夜中の雪のようにゆっくりと積み重ねられているのだとしたら、それはとても悲しいことではないだろうか。
主人公が辿り着くであろう場所と、グループ体験のもたらす意味を重ねて、僕はそんな風に思う。