覚えているグループ
母が2度目の脳梗塞で搬送され、後に移ったリハビリ棟の4人部屋での事。そこには脳梗塞の後遺症や骨折をした3人の女性がいらした。84歳の母は一番年若で一番重症だった。私が週2回、病室を訪ねると皆さん口々に「お母さんは今日はリハビリを頑張った」「ご飯をよく食べた」と教えて下さる。「お母さんはきっとよくなる」とご自分達を励ますように話される。 病室の真ん中に小さなテーブルがあり、時々集まってお喋りをした。私は母と二人きりでいるより気が楽だった。Aさんは「娘は忙しくてなかなか来ない。息子は毎日来るけど用が足りない。カーディガンひとつ持って来れやしない」とこぼし、96歳のBさんは「注文が沢山来て大変」と、アクリル毛糸の束子を編みながらの参加だった。Cさんは「退院したら独り暮らしはもう無理だから娘と同居するのだ・だから歩けるようにならなきゃ」とおっしゃる。母はというと、黙って白っぽい眼でじっとひとの顔を見ていることが多かった。 病室がステーションとホールの前にあったためか、時々ひとりの車椅子の男性が入口の前で私たちを見ていた。その方はどうやら病棟の困り者のようで、よく喚いては「叫ばないでナースコールを押して!」とスタッフに懇願されていた。その日は熱心な若いナースに「糖尿なんだから隠れてお菓子を食べないで」と言われ、叫び返していた。Cさんが「ああやって押さえつけられるから大声出すのよ」と同情したが、母は「馬鹿じゃないの!」と言い放った。男性にそれらが聞こえたかどうかは分からないが、私達に向かって「一事が万事気に入らん!」と言って行ってしまった。叫び声ではなく言葉で。私はCさんはすごいなあと思ったり、おじいさんがまたグループに「ドア前参加」してくれるといいなあと思ったりした。母の中に生きた感情があって、周りと呼応して言葉になる。それが嬉しかった。(男性には気の毒だったけれど)でも、病気になるとあっという間に人生の舵は人の手に渡る。私も母を押さえつけているのだと思った。 病室グループは細々と続いた。Aさんは「家に帰っても息子と二人。老老介護で心配。息子は自衛隊であちこちに行ったから結婚しそこなった」と、Cさんは「施設に入る事も考えている。娘は母子家庭で孫は障害児。同居して負担をかけたくない」と、そんなお話もされた。あれから男性の参加はなかったと思う。(つづく)