「コンダクター」ってなんだろう?
「コンダクター」ってなんだろう?という問いは、「大人」ってなんだろう?という問いに似たものを感じます。
辞書をひけば、正しく説明が記されているのだけど、どうも役に立たない。辞書の定義は間違えていないけれど、求めている答えとはなにか違う。そのなにかを模索するために研修会に参加しているのかもしれない。
僕がコンダクターをする際には、「自分でいられる」「自分を感じられる」ということを大切にしています。
自分が自分でいるなんて、当たり前のことのようですが、自分の在り方、抱えている感情に気づけていないことは少なくありません。
自分を知るために、思い浮かぶことを話してみるようにすすめています。まとまってからではなく、とるに足らないこと、関係ないようなこと、言いにくいことをそのまま話せると、ひとりで考えているより、感覚的に10倍くらい価値があると思っています。
でも、これは簡単ではなく、自然に話せるようになるまでに、何年もかかるかもしれません。僕は研修グループに出ていても、つねに口数少ない方から一番、二番でした。
無口だった僕にとって、グループで「自分でいられる」ようになれたことは、かけがえのない経験でした。だからこそ、「自分でいられる」ことを軸に、どうしたら、グループをメンバーにとってもっと役立つものにできるか考えています。
この問いは終わりなきものでしょうが、実践と研修を繰り返すことで、コンダクターとしての力(理解や技術)は高まると思っています。
しかし、近頃はコンダクターとして能力を高めることよりも根幹的に重要な要素としてよく考えていることがあります。「結果への責任、覚悟」です。
僕は長くサッカーのことも考えてきましたが、サッカー選手であれ、コンダクターであれ、必ずうまくいかないことがあります。スキルや能力は高いけれど「結果への責任、覚悟」が足りない選手やコンダクターは好きになれません。
コンダクターとして尊敬している方々には、技能の高さだけでない共通項を感じてきましたが、その共通項は「結果への責任、覚悟」から滲み出ている存在感のようなものではないかと考えだしているところです。
「コンダクター」ってなんだろう?という問いは、いつしか僕を「在りたいコンダクター」へ導いてくれているようです。